章綸墓は明の礼部尚書の章綸を埋葬した陵園で、楽清市の現存した規模が最も大きい墓の一つ。
陵園の中心は石だたみの小道で、その一部が18の方形の石と33の丸い石が垂直に立ち並んで敷いたもので、それぞれ十八層の地獄と三十三重の天を代表する。道の両側に古い木が空高く聳えて、外から内までは対称的に石虎、石羊、石馬、石人などが点在し、厳かな雰囲気が溢れている。
章綸墓は明憲宗成化二十三年(1497年)に建造され、1988年に「章忠義公章呉通譜詩碑」が新築され、1990年に石碑坊が再建。
章綸は1413年に生まれ、正統三年(1438年)に郷試に合格し、翌年の春の科挙試験で会魁(三番目)を勝ち取り、さらに殿試で二甲三番目で進士になり、正統六年に礼部侍郎に引き立てられ、「忠義の大臣」と誉められている。成化十二年(1476年)に、官職を辞め里帰りした。1483年死去。憲宗皇帝に南京礼部尚書に任命し、「恭毅」との贈り名を賜られた。「章恭毅公集」が現存。その墓の両側に「鉄骨泉下の土に埋める、石腸冢の中央に化す」との対聯があり、一代の忠臣の節操を表している。 |